カルト宗教じみた仲間意識、安易に使われる愛とか諸々に恐怖を感じる。
感謝とか絆とか青春とか愛とか友情とか心友とか死語だとズッ友とかニコイチとか顔張るとかいわゆる私のイメージの中でプリクラにありそうな言葉をむやみに使うのが個人的に好きではない。特に単語のみで使うこと。これは昔からだ。
プリクラの時間切れ間際に仕方なく入れる写真の隙間の穴埋めスタンプ程度ならわかるが、「はじめっからこれ入れようね♡」みたいになったら興ざめしてしまう。とかいいながら、私は現在のプリクラの仕組みはわからないからとやかく言えないが。
誰かが使うのに対しては書き癖かな?程度の関心だが自分が使うと考えると本当に気持ち悪い。昭和の漫画風にふざけてネタ的に書くのは面白いが、何というか心の底からそうであってほしいというのは嫌だ。
ビジネスとしての利用や、ポエムとか歌詞とかならそういうもんなんだなという認識だが、私事でそうあるべきとか強制されて取り込まれるのは恐ろしい。
暑苦しくて強制される宗教みたいなのに恐怖を覚える。宗教を学問として勉強してきたし、カルトは他人事だと大変面白いのだが巻き込まれるのはまっぴらごめんだ。
そういう存在なのが嫌いというよりも、存在や括りを強制されて取り込まれるのがとにかく嫌だった。自分から取り込まれに行った場合なら良いのだが、「私たち仲間だよね」と強制されるのが嫌なのだ。
かなり私は拒絶反応が行き過ぎていると思う。それは自覚している。気付かないだけで何かトラウマがあるのかもしれない。
学生時代では、スポーツは大体好きだったので体育祭とかも好きだったのだが「みんなでマジックで『◯組最恐』と腕に書こう!」とか言われると笑顔で応じながらなぜか寒気がした気がする。
「最強」ならともかく「最恐」ってなんだよと。ヤンキーかチンピラでも目指してんのかよと。そして何より油性マジックで書くとか勘弁してくれよと。
中学の時、なぜか流行る「LOVE&PEACE」だとか机に文字を掘っている奴は恥を知れとか思っていた。とはいえ当の自分は完全に厨二病だし、多分今でもそうだし、恥さらしなのは私の方だろう。
正直言って誰とでも浅くは仲良くできるタイプだし、色々なグループに顔を出してはうろうろしていたが、深く取り込まれたくないからそうしていたわけで、本来1人が好きで、いつも誰とでも良いから集団でいるのが好きなタイプなわけでもない。
そもそも本当に仲良くしてきた旧友は数人だ。仲良くしてきたというか、本音をぶちまけても仲良くしてくれたというのが、か。
それに、誰にも頼まれてもいないし、私は気も効かないくせに、変なところにやけに気を遣う性分で、ものすごく人間に疲れる。だから人間よりも動物のが好きだ。
大人になってからは別に誰かと一緒にいなければいけない理由もなく、1人でいても変には思われない。好きで1人でいるのに気の毒に思われたりもしない。だから一緒にいる人を選ぶことができるのは嬉しい。
こんなひねくれてこじらせたままでいるのだが、なぜか良くしてくれる人、本気で心配してくれる人、本気で気遣ってくれる人、私以上に怒ってくれる人、言いづらい苦言を言ってくれる人、私以上に悲しんでくれる人、私以上に私のことを考えてくれる人がいる。
ここ最近、特に感じる。冗談抜きに涙が出る。この人たちはなんでこんなに優しくしてくれるのかと。私この人たちに何もしていないのになと。本当に本当にありがたい。
だから、そういう人たちにマジ感謝しているし、絆を感じるので心友だと思えるし、私これから顔張っていこうと思える。
ごめんなさい。ふざけました。皆様本当にありがとうございます。おかげさまで生きています。なので、もっと人を信じて人間を好きになります。そして、好きなことで楽しみながら適度に仕事や私事を頑張ります、はい。